何故武術を捨てたか

煮干しになりそうな夏でしたが、皆様は如何お過ごしでしょうか。
きっと夏のツケに苦しんでおられることでしょう。
人それぞれ最初に力が入るところというのがありまして、そういう特性を生活習慣によって負担にしてしまう人は多く、元気なうちからそれを整体操法や、人体力学体操や、藤岡式呼吸法で調整しておく習慣をもつのが理想ですが、哀しいかなそうはいきません。どうしても治してもらおうという気持ちが先立つのは、今風と言えましょう。

さて、何故私が武術を捨てたかという話ですが、それは無理だからです。
闘争の本質は、本気度と速さと勢い、この三つだけです。どれほど達人になろうが、隠すのが上手になるだけで、まさにこれのみです。
そういう体験を若いときにしました。
三つ紹介します。
①歌舞伎町で働いていた頃、西武新宿駅からではなく、馬場から帰ろうと、裏通りを歩いていたとき、ご商売の男性からの一対一の客引きにあいました。
必死な人の力というのは相当なもので、腕に覚えのある私も、打撃でダメージを与える局面ではないために遠慮をしてしまい、技術など運用させようがなかったこと。
②30年近く前にモンゴルに行って現地人と交流する中で、馬術が尋常ではないだけでなく、現地の流儀の相撲をとってみたところ、まるで岩に蝉がとまっているかのごとくビクともせず、何度やってもコロコロ転がるのみだったこと。
③20年程前、知人のヨーロッパ人は、日本の田園地帯で水路に脱輪した軽トラを、たった一人で持ち上げて復位させたこと。

彼らは武術家でも何でもなく、そういう鍛錬もしたことはないとの話でした。(当時すぐに聞き取りました)
こんな人らとは争うべきではないと。やるなら容赦しない気持ちでいないと。
体が違う。日本人は鍛えると硬くなり、欧米人は鍛えると太くなる。アフリカ人はそもそも鍛えなくても強い。
日本人には動作や習慣の鍛錬が大事で、それには生活だと。
それならば武術や護身術なんて嘘っぱちだと。
何年やったって無意味である。人間的な器の大きさとは正反対の非情心を持たねば返り討ちに遭う。
そう判断しました。無理と。
もっと他のことに時間を割くべきだと思うようになったのです。
それで、あれほど大好きだった武術は一切止めて、今となっては百姓の体の使い方に活かせるかどうかというところです。
整体操法の型の方が役立つことだってある。
殴られそうになっても冷静でいられる。怖いですけど。
ま、その程度です。そもそも殴られそうになる時点でアウトなんですけど。
随分前のことですが、仲良くなった女性の元彼と名乗る人が殴りに来たことがあったりと、割と楽しい人生を送っているものだなあとは感じます。
この時は反撃の準備ができていましたが、危機を察した相手のご友人らしき男性が相手を止めに割ったため、何事もなく、私はその女性からも怖がられ、その後何事もなく、何だかなあと。やはり武術なんぞ何の役にも立たぬわなあと、ひとしきり思うのであります。

それ故、捨てたのです。

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