同じではない一
氣と心と意志とは混同されがちです。今思いついた造語でいうところの「アナログハイブリッド」といいましょうか、古い言葉でいえば「一如(いちにょ)」のようなものです。一如というのは「まるで一つのようだ」ではなくて、大雑把にいうと「一つのまとまりの見え方が異なる様」といった意味合いです。
私が氣を説明すると「集める働き」とこれまた大雑把ですが一言に集約します。生き物は細胞があります。一つ一つが別々の生命ともいえます。それらを集め統合して、脳だ内臓だという機能の固まりを作ろうとしている働きは何なのか。現代の科学でさえ説明のできないこの集める力を、昔の人は氣と呼んだのではないか。私はそう思い至りました。この性質を知り、訓練することで、氣の流れや集中をコントロールすれば、様々な働きや流れを誘うことができるのです。
となると、これは「心」とは違う働きを観察して名付けたものであることがおわかりいただけると思います。
切っても切り離せないまとまりの中の、深く関連があるものではあるが、便宜上別の事象を説明する呼称である。
しかしそれぞれ連なっており、混じっており、励起しあう、なんとも面白い命の顕れなのです。
以上前置きです。
さて、全ての職業において共通していることであるように、長年続けていると各分野における勘が養われ、説明のつけがたい特殊な能力が身についてきます。
そして所作の一つ一つに心が宿ることに帰結します。
元来みんなそういう能力はあり、仲間が何か言おうとすると同時に同じことを自分が話し出したり、何気なくかゆいところを掻こうとしたときに小石が飛んできて手の甲に当たったりなどなどのような経験をしたことあるという人がほとんどではないでしょうか。
以前、私が井本整体の事務局員だった頃、原宿の事務所で書籍の写真のチェックや加工をおこなうためのPC作業で夜遅くまで業務を継続していたとき、井本先生が肉まんを買って持ってきてくださったことがありました。部屋の電気は消してカウンター前の電球とPCの光のみで外からは人がいるかどうかわかりにくいはずで、そもそもご自宅からは離れているのでたまたま通りがかることはあり得ない状況でした。おそらく何か感じ取られたのでしょう。
訓練を重ねると、このようにふと感じる何かがだんだん正確になってゆきます。
整体操法でいえば、相手と一つになることで、より一層操法の精度と速度および力の運用効果が上がるのです。
このように、自分自身での一や全体の一など、意識以前の何かというのは確かにあり、そういうのはないというのは、ないということに集中する故自ら方向付けしたようになっているということなのです。従って、氣というものは出せば出すほど新手が入ってくるのが実際ですが、出せば失うと思って訓練してしまうと、自分でそういう状態を作ってゆくこととなります。
一度書く手を離して一気に書かなかったため、文にまとまりがなくなっていることご容赦ください。